ちょっと実家でバタバタしていました。以下、自分用のメモ。
実家は名古屋と違っとるけど、みんな名古屋弁だもんで帰ると名古屋弁になってまうわ。(東京に戻って来てまったもんで、変な名古屋弁になっとる気がする)<ただいま名古屋弁なまりの言葉をしゃべる人になっています。
9日(木)早朝「ばーちゃんが意識不明で救急車で病院に搬送された。」と、出先の母ーちゃんから電話で起こされる。
午前中、準備をして(含むカメラ、フイルム)妹とバタバタ帰る。病院に着いたら午後6時。ばーちゃん意識戻っていた。
原因は老人の肺炎。呼吸がうまくできず酸欠で倒れたらしい。かかりつけの病院の当直が小児科だったため未体験の病院に搬送されてしまっていた。ばーちゃんが病院を転院希望訴える。夜は母が病院で泊まり込み。見舞いに来た親戚は家へ泊まりウン十年ぶりに会うので近況報告爆裂。
10日(金)早朝から容態が悪化。転院は無理と判断。午後、付き添いを交代。容態落ち着く。が、寝ている時以外は、転院希望を訴える。暑い、寒い。冷たい。汗拭け。あれこれ指令する。夜は母が病院で泊まり込み。
11日(土)電話で起こされる。午前中の容態が良くない。ばーちゃんの希望どうり転院しようという事になり、かかりつけの病院に電話するが土曜日で事務が開いていない。対応してくれた看護士が「病院同士で事務手続きをしなければならない。」と説明してくれる。入院先の担当医師に相談するが、どうも話が違う、「書類を作るので転院先の病院へ持っていけ。」と言う。指示に従う。今回、我々の対応が後手後手になっているポイントを見つけてはあれこれと悔やむ面々。週明けを待つことにする。どちらにしても土曜日なので、動きがあるのは月曜日であろうと思われるが、なるべく早い方がロスタイムが少ないと考え、書類を転院先に病院に届ける。
その間付き添い。相変わらず、ばーちゃん細かい指示が多い、転院の処理の状況を常に確認したがる。血圧の値を気にする。とにかく意識だけはクリア。
同居人が見舞いに来てくれる。手伝ってもらって助かる。病人と1対1じゃなくなるので精神的にも助かる。
12日(日)早朝電話。母ーちゃんの朝食用の弁当を作り病院へ。
父が病院で泊まり込み。帰りつつ母ーちゃん「免許証を持っているのに運転できないのはダメだ。車幅が分からんのでしょう」と言うので、にわか教習所。恐るべし母ーちゃん。都議会選挙に行けなかったけど、選挙速報少し見る。
13日(月)早朝電話。父ーちゃんの朝食弁当を作り病院へ。容態は少し安定しているが、相変わらず指示細かく息苦しそう。自律神経系も不安定な人なので大変さが倍増である。
転院先の病院と連絡を取るが話の通りが悪い。午後になって正確な手続きの方法が判明する。病院の「地域医療室」という部署どうしが、病院間の交渉、事務処理を行うので、そこに話を持っていかなかればならなかったらしい。
現在入院先では、この説明はどこからもされなかった。ちょうど病室を回っていた看護士長さんに問い合わせてやっと話が通るが、返事がこない。しびれを切らした母ーちゃんが「地域医療室」に問い合わせるが、転院先と何の連絡も取っていないことが判明、母ーちゃんが激怒。交渉が開始。水曜日にならないと転院先の病院のベッドの空き状況が確定しないので本日の転院は無理という結論。母ーちゃん+私で怒りで大泣き。「患者を引き止めて部屋の空きを埋めたいだけでは?」「患者を食い物にしてるだけでは?」不信感Maxに、病院への評価ががた落ち。技術的に酷いわけでもないのにコミュニケーション能力が欠如してるばかりに。
ひと昔前の転院は簡単だった。受入先を確保して、入院中の病院を退院手続きを取ればそれで済んだ。組織化。病院の経営。個人情報保護法もろもろが絡んで、厄介でしょうがない。
1週間も10日も病院に居たような気がする。長い日々だった。
帰りの新幹線で解散総選挙のニュースを知る。
そんなわけで、ただいま個人的に「ノー・モア自民、公明キャンペーン」中。