秋に大阪で個展をする事になりました。
「自戒をこめてなのだけれども、”被災者は”、”日本人は”とかさもそういう個人が居るように語るのやめよう。そんな個人は居ない。」
震災がらみだったり、普段「あの世代ってさ」「フランス人ってさ」とか言いがち。個人を集団に丸めない。
最近気になるのは、前提条件やら定義なく「復興」って言ってみたり。
「復興」って多分一人一人思い描いている事が違うと思うのだけれど、それが内容なくヴィジョンもなく言葉に丸められるて変だと思う。
そして、あいまいな「復興」のために行う事は良い事だったり、支持を得やすいから厄介だ。突っ込みを入れるのも難しい。そもそもとか、本来どうあるべきかって事を追求しちゃうから、温かい気持ちをクールにしちゃうからね。
「自分は○○がしたい。」とか、「自分は○○が好き。」とか。「自分は」って利己主義に語る事は届いて来るけれどね。「被災地」とか、「被災者」とか漠然とした言葉で語ってもリアリティー無いんだよなぁ。「上から目線の温情に酔ってるだけじゃない?」って思っちゃうんだよねぇ。この事に絡んで、カロタイプWSで白岡さんが言う事に頭の中でリンク。
リンク先を見て、びっくりw
上から目線云々はそうだと思います。
日本語は主語がなくても通じてしまうけれど、出来る限り「私は」という姿勢は持っていたいと思っています。
話が飛ぶようですが、哲学者の中で一番偉いと思っているのはデカルトです。
あの「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」は哲学的にいまだに突っ込まれていますが、これが重要なのは「私」というものの存在を明確に宣言したところです。
投稿情報: ろくろく | 2012/03/16 00:33
なんかね、急にリンクしちゃったんだよね。
FB上で見かけた瓦礫処理賛成の意見を読んでいて、抽象的な言葉が並んでいてリアリティなくて、「善意の自分」に酔ってる風だったものだから。あぁ雰囲気に酔ってるね。って。
せめて「あなたが必要であれば手を貸します。」「私は、○○ならできます。」or 「やりたいです。」って言えば良いのにね。って思うわけだよ。
もっと自分の手の届く範囲で、でも、隣の人と手をつないだらでっかくなるよ。みたいな地道な感じで語ってくれたら届くのになぁ。って。
投稿情報: さるぢえ | 2012/03/18 00:13