小熊英二「<民主>と<愛国>」遅々と読んでいる。すごく分厚い本なので持ち歩いて読むのにはちょっと重いのだが、家で落ち着いて本を読む体制にならないので、結局、持ち歩いて移動中の電車で読むことにした。
せっかくの大作なので、ちゃんと最後まで読まないとね。
不慣れな分野なので、ちゃんと読めているのか、例によってお調子者な私は不安になるが、やっと1部を読み終わる。
学者も政治家も涙が出るほど人間臭い。
昔、野坂昭如がサントリーのCMで「みーんな悩んで大きくなった」と歌っていたのを思い出す。(かなり古いな。)
このごろの色々な事件を見るに、日本の戦後処理の諸々の整合性のとれていないところが、非常にまずかったように思うし、これを考えだすと明治まで考えるハメになり、どんどん、歴史をさかのぼらなくちゃいけないハメになりそう。
>これを考えだすと明治まで考えるハメになり、
歴史に詳しくはありませんが、国家の責任を云々する場合、一応、近代国家以降がその対象になると思っています。
ですから日本の場合は、明治以降です。
投稿情報: ろくろく | 2006/08/17 08:14
国家の責任を語りだすと、多分、明治からを対象にするんだろうなと思われるのですが、歴史ってデジタルに区切れるものじゃないという感じがするので、もし、ハマってしまったら、どんどん歴史をさかのぼるハメになりそうな気もするわけです。
漠然とした印象です。
ちょっと話変わるけど。
自分が体験していない事は、言葉によって時間が区切られてしまうんですよ。歴史年表が時代ごとに色分けしてあるみたいに変わってしまう感じ。
例えば、戦前と、戦後って言葉で区切ると、そこから別の社会が始まったかのような思い込みができちゃうんです。
統治者が変わって、制度が変わるから別の社会なのですが、そこに生き残った人は同じだから、バッサリ切り替わるというのは違うかもしれないと、これも漠然とした印象です。
歴史をちゃんと勉強したことないので、学問上いろいろ分けて取り扱うことをごちゃまぜにしているだけかもしれません。
投稿情報: さるぢえ | 2006/08/17 16:15