仏語の授業が終わってから、レストランのハッピーアワーでワインとチーズでクラスメイトと一杯飲む。
みんな私がデモに行ったりしてるの知ってるのだが。なぜか、今日、「がんばってね。」と、言われちゃった。「いや、そうじゃなくて。みんなも行こうよ。」と、いうが「いや、私は、」と、なる。「デモなんて行列に付いていくだけだし、国会前は、そこに居て人の話を聞いたりするだけだよ。あれはビジュアルだから。」と、言ってみるが、やっぱり「いやいや」となる。1時間のハッピーアワーのほんの一瞬の些細なやりとり。
私は、国会前が日常になるまでに「デモしてもね。」と、思ってたわけだが、居てもたってもいられなかったんだよなぁ。人に誘われたわけでもなく、言われたわけでもないけど、ビビリにながら行ったんだよね。
この、好意的な、でも、しかし、声をあげてない「がんばってね」って言う人が、"私だ"ってなるのはどういう時なんだろうか。ちょっと、溝あるんだよなぁ。
この前の土曜日。
今年の「哲学の夕べ」に参加。テーマはFICTION[S]。午後1時の整理券配布に並ぶ。
ミーハーなので國分功一郎さんの講演会目当て。
あと、定番になってるトリスタン・ブリュネさんの哲学のアトリエ「フィクションの科学」は、途中から参加。最初から聞け無かったので残念。
國分さん、フランス語ペラリーノだった。rの発音も完璧っぽかった。ま、どうでも良い事だけど。
想像力は、存在しないものに存在を与える。
他者は知覚領域の構造である。無人島に住むロビンソンクルーソーから他者の機能を説明。
ドゥルーズがインタビューに答えているDVDを上映して、左翼とは世界の知覚の問題。政権批判する事ではない。という説明。左翼ではないというのはどういう事か。
(右翼)自分から出発する知覚。自分の地位を維持し続ける。
(左翼)周辺から出発する知覚。遠くの事件を近くの事件よりも身近に考える。
常に、他者との接触で想像力は生成するし、維持する。
そんな話だった。哲学勉強してないから半分も理解してないだろう。言葉も正確に拾ってないかも。でも、おもしろかった。
星野太さんの話は「虚構しての芸術/政治」
この方もフランス語ペラリーノ。芸術も政治も同じ虚構。ちょっと難しいけど「政治の虚構に芸術の虚構は敗北している。」 って言葉がツボにはまる。
ブリュネさんの話で出てきた哲学者 Jacques Ranciere "La partage du sensible"。
講演者4人のTable ronde。では、SFから政治、芸術、欲望、核。多分、重要っぽい問題提起があったと思われる。
ちょっと、頭の隅で気になってる事、フィクションに対する現実ってのは、いったいどういう物なのか?
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