まだ、写真を始める前のことだが、写真といえば報道写真にドキュメンタリーだと思っていた。不条理を告発するのが写真の役割だと思っていた。かなり偏ってたね。
しかし、戦争、貧困、不条理満載な状況を、場所と被写体が違うだけで、ドキュメンタリー写真は、どれも同じような写真のような気がした。そこに、「より悲惨が写っている事が重要なんじゃないか?」「こんな事がある」と報道されれば何かを考えるきっかけになるかもしれないが、一過性のブームのようにやってきた「ひどい!」って感情だけで、その問題に関心を持ち続けるのは難しい。告発する写真で社会が良くなるのか?と、疑問だったし、強く生きる人々的な写真も、全く嫌いだった。ドキュメンタリー写真から遠ざかっていった。
我流で始めたお散歩写真は下手くそで、シャッター切るのは好きだけど、露出の決め方もわからずのままだった。30半ばで渡部さとるさんのWSを受講。何か違う物を作りたいと思った。社会を良くするとかそういう事とは関係なく、もっと個人的なもの。安心できたり、しばし脳みそ君が休まる写真。10年ちょっと、細々と続けてきて、あんだけ人は撮りません撮れませんとか言ってたのに、人なんて撮ってたり、昨年の夏からデモに行くようになって、行った所で写真を撮るのが私の写真なので撮ってみた。「それ、記録でドキュメンタリーじゃない?」ちょっと自分でも「あれ?」ってな事に。
島崎ろでぃー×ECD共著「ひきがね」を買った。島崎さんの写真にECDさんの文。3.11(そうだよ、ここから始ったんだよ。)から去年までの路上の様子が語られていた。いろんなデモがあった事を始めて知る。久しぶりに写真を凝視する。自分も撮ってるけど、1参加者として中で埋もれて撮るので、こんな風に絶妙な距離感で記録できてない。「国会前の雰囲気は、そうそう、こんな感じだよ。」埋もれて見えてなかった、SEALDsのメンバーの様子を初めて見るような、でも、「あぁ、そうそう雨だったよ。」って、記憶を呼び出す。私も、ココに居たんだよ。当事者だって意識は、ドキュメンタリー写真を見直させるきっかけになった。
写真に写ってる人たち、気迫ありありだったり、身体はって真剣だったり、楽しそうだったり。そうそう、路上、楽しい。で、あそこに居る人は、みんな親切だ。飴ちゃんくれるとか、あげるとか。傘貸してあげるとか手伝ってあげるとか声かけあうとか。ECDさんも書いてたけど、良い社会がほんわりできあがってる。解散して地下鉄に乗るといつもの東京の帰宅風景だったりするけど、路上から持ち帰った柔らかい空気は意外に薄まらなくて、そのまま、持ち続けていたりする。私は、観客席を降りられたのか?
写真の役割、目の前の事を記録する、記述する。それで、社会が良くなるか?そんな事は知らない。
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