高山寺、一度行った事がある。最古のお茶畑があったような。落ち着いた所だった気がする。
鳥獣戯画展を見に行く機会があった。
高山寺展っていうのが本来のような気がするけど、鳥獣戯画展って言った方が集客力ありそうって事だろうな。で、鳥獣戯画は、すんごい、お茶目で、可愛い。前半と後半で展示を分けるのは、ちょっと、ずるいぞ。一度に全部見せてくれれば良いのにとか、思う。後半部分はダミー展示してて、なんだかなぁ。な、気分。
高山寺の、お宝も楽しい。
明恵くんって夢を記録したりして面白い人だよね。
留学したお坊さんに恋して、海に身を投げた、善妙ちゃん、切ないわそれ。
犬の彫刻がかわいい。
ミュージアムショップがグッズ屋さん化しており、デパートの展示みたいだなぁ。って、思う。まぁ、良いんだけどね。美術館もお金稼がないといかんからね。まぁ、ね。
以下、グルグルのあれこれを脈略なく。
静岡演劇祭で見た作品は、レバノン、日・仏、ベルギー、って取り合わせだったのだが、どの作品も言葉、文化の壁を乗り越えて、静岡にやってきた作品だ。同じ文化圏の作品ではない。だから、完全に理解できていない事は確かだ。し、これに限らず、"理解できる"って事は幻想だと思っている。言葉で説明される事が必要な事もある。しかし、けれども、言葉、文化の壁を乗り越えて、感じる"何か"は、言葉で説明された事ではなく、五感で感じた"何か"だと思う。その"何か"は、私の物。
隣で見ていた人は、違うかもしれない。
青木繁のポートレイト、岸田劉生の静物、荻須高徳の風景は、"何か"を感じる、その"何か"は、何なのか解らない。時間を越えて来た"何か"だ。わからないまま、五感を楽しむ。
高山寺くらい遠くなると、"何か"は、時々。
Point Zèroのジャン=ミシェル・ドープの「生死は、言葉で考えるのではなく身体で感じるものだ。」みたいな事を言っていたけれども、多分、そうなんだろう。
「盲点たち」って「群盲」より良いタイトルだな。知らない者、知らされない者の点。群というより、点たち。ある意味、何も起こってない、のに、解らない事の不安。人生、知らないまま進むから、不安ばかりだよなぁ。
どんな時にシャッターを切るか? 何か、「お!」って思った時。それは、言葉じゃないから、言語化は不可能。絵になりそうな所とも思わないし、言葉になった所を写真にするわけじゃないしね。企画書作って写真撮るわけじゃなしね。言葉は後付け。だし、言葉より五感を信じる人だからなぁ。
それに、写真は言葉じゃないから、言葉の壁を乗り越えるの楽じゃない?って、思うんだけど。違うんだろうか?